文明の発達で人間はどんどん不自由なく生活できるようになっている。
今回はその中でも電話に焦点を絞った話。
誰しも無くてはならない物のひとつ。携帯電話。
先日小学生が街中で携帯でぺラぺラと喋っていた。
今ではそんな光景も珍しくない。
しかし何故だかそれを見て僕は寂しい気持ちになった。
携帯が普及するようになり、もう十年くらいは経つだろか。
現代の子供にはそれがある事が当たり前なのだ。
そんな事は十分承知なのだが年代が違う自分の過去と比べてもどこか寂しく思えたのだ。
僕が携帯を初めて手にしたのは人より少し遅めで専門学校に通っていた頃。
高校の時はポケベル全盛期で携帯の価値が分からなかったからそれで不満はなかった。
ここで問題は小中学まではどうしていたかだ。
友達と連絡をとる手段といえば実際に家を訪問するか、家の電話を使うかしかなかった訳だ。
軽く緊張しながら「○○ですけど○○君いらっしゃいますか?」と相手のご両親に尋ねる。
緊張のあまりいつも呼んでいるアダ名を言ってしまうこともしばしば。使い慣れない言葉で噛むことも少なくない。
休みの日なんかは直接友達の家にむかい外から名前を叫んだりもしたっけ。
そして良く思うのが待ち合わせの時だ。
今では場所も時間もわりとアバウト。いざとなれば携帯で連絡がとれるからだ。
昔はそうはいかなかった。
指定した場所と時間に相手が来ない場合連絡をとることがまず不可能であり、どうしようもない。
お互いの信頼関係が問われる問題だ。
公衆電話を探してる間に相手が来たら?今では考えられないドキドキ感だ。
そんなすれちがいが恋愛ドラマの味でもあった訳だが。
話は長くなったが電話に限らず時代の進化により人間の本質的な部分が薄れてきている気がする。
自分が生きるこの社会の中で何が必要で何が必要じゃない事なのかを改めて考え、判断できる知恵と力を身に付けていきたいものだね。
もう僕が使う事は無くなった宅電。
たまに僕の名を名乗るフトドキモノから電話がかかってくるそうです。